戦前、父は新潟県西蒲原郡巻町(現在は新潟市に合併)の歯科医のもとに「書生」として住み込み、将来は検定試験を受けて歯科医になることを夢見ていた。しかし戦争のために夢は砕かれ、戦後になって歯科技工士の資格(富山県第21号)を得た。
父は、貧しい家に育ったため、「高等小学校卒」の学歴しかないことを悔やんでいた。高小の1番と2番の成績の卒業生が、そろって野菜市場に就職した、と語っていた。そのうちの一人であった父は、のちに郵便局に長く勤めることになったが、能力よりも学歴がモノを言う世界に不満を口にしていた。
だから、大学進学については、無条件に認めてくれるものと思って、まったく疑いを抱かなかった。
大学入試の直前まで、歯学部進学は考えていなかった。文系を希望したが、「歯学部でなければ仕送りしない」という父の強い態度に押し切られ、国立大学歯学部2校と、公立大学医学部1校を受験した。後に分かったことだが、医学部も合格していたらしい。「サクラチル」という偽装電報に手もなくだまされた。電報が配達されず電話で伝達されることに疑いを持たなかったのだから、おめでたい。当時は、東京へ出られればそれでもいい、という程度の認識だったから、どのみち、地方大学の医学部へは行かなかっただろう。
大学に入学してから、教養課程が東京ではなく、市川市の郊外であることを知って、おおいにがっかりした。あれやこれやで、一時は絶望的になっていたが、立ち直るきっかけになったのはセツルメントや無歯科医地区でのフィールド活動だった。社会の中での居場所を見つけた。
そのことはいっぽうでは呪縛でもあった。筋を通して生きるには、世間の風は厳しい。
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